琢磨が連れて来てくれたカフェは可愛らしい犬のイラストが描かれていたカフェだった。「このカフェは人間用のメニューだけでなく、犬用のメニューも豊富にあるんですよ」琢磨が真顔で『人間用』と言うので、思わず朱莉は吹き出しそうになってしまった。「どうしましたか?」「い、いえ……。九条さんて真面目なイメージしか無かったので……何だか意外な気がしただけです」「そうですか? そんなに真面目に見えますか? でもそう思っていただけるなら光栄ですね」 その後、朱莉はシフォンケーキとコーヒーのセット、琢磨はエスプレッソとチーズケーキのセットを注文した。「マロンにはこちらのケーキは如何ですか?」琢磨はメニュー表を見せた。それは手のひらサイズの可愛らしい3段重ねのデコレーションケーキである。「ほら、このケーキの説明を読んでみてください。何と魚や野菜のペーストで作られたケーキなんですよ」「うわあ……すごいですね。見た目はまるでケーキ見たいです。身体にも良さそうですし……ではこれにします」2人は窓の外を見ると、そこはゲージに覆われた小さなドックランになっており、マロンが走りまわっている。やがてそれぞれ注文したメニューが運ばれ、朱莉と翔はマロンの様子を見ながらカフェタイムを楽しんだ。その後、2人は朱莉の住む億ションへ向かった――**** 億ションに到着すると、朱莉は玄関で立っている琢磨に声をかけた。「本当に部屋に上がらなくていいんですか?」「ええ。おせちを分けていただくだけですからここで待ちます。琢磨は玄関から中へ入ろうとしない。余程朱莉に気を遣ってくれているのだろう。(お待たせする訳にはいかないから急いで準備しなくちゃ)朱莉はタッパを取り出すと、次々とおせち料理を詰めていく。そして5分後――「すみません、お待たせしました」おせちの入ったタッパを紙袋に入れた朱莉が玄関先にいる琢磨の所へやって来ると紙袋を手渡した。「あの、お口に合うかどうか分かりませんが……どうぞ」「ありがとうございます」紙袋を受け取り、中を覗く琢磨。「ああ。これはとても美味しそうですね。持ち帰って食べるのが今から楽しみですよ」「いえ、ほんとに対した料理では無いので期待しないで下さいね」「そんなことありませんよ。ありがとうございます。ところで朱莉さん……」「は、はい……?
正月休みも開け、もうすぐ1月も終わろうとしている頃――「朱莉、もうすぐ2月になるわね」お見舞いに来ている朱莉に母が声をかけてきた。「うん、そうだね。季節の流れって早いよね」朱莉は編み物の手を休める。「ねえ、朱莉。それって手編みマフラーでしょう?」「うん。そうなんだけど編み物って高校生の時以来だから中々進まなくて。やっぱり模様編みって難しいね」朱莉は恥ずかしそうに答えた。「その色だと、どう見ても男性用ね? ひょっとして翔さんに?」「う、うん」小さく頷く朱莉は……どことなく洋子には寂しそうに見えた。「大丈夫、きっと喜んで受け取ってくれると思うわ。お母さんもね、お父さんと付き合っていた時にマフラーを編んでプレゼントしたことがあるけどすごく喜んでくれたから」「でも手編みのマフラーって男の人から見たら重く感じるかなあ?」朱莉の物の言い方に洋子は違和感をいだく。(朱莉……。貴女と翔さんは夫婦なのよね? それなのにどうして重く感じるなんて言い方をするの? まだ一度も会わせてくれないし……)洋子洋子はずっと以前から翔に会いたいと思っていた。しかし朱莉にその事を告げると悲し気な顔をされたことがあり、それ以来尋ねるのをやめていたのだ。思わず、じっと我が娘を見つめる洋子の視線に朱莉は気付くと、慌てたように言った。「あ、ほら。例えば下手な編み目で身に着けるのが恥ずかしいようなマフラーを手渡されても、本当は使いたくないのに義務感から周りの目が恥ずかしくてもつけないといけないって思わせたら悪いかなって……。そう、それだけの事だから」朱莉の必死な弁明を洋子は複雑な思いで見つめるのだった—―****「ただいま……」ドアを開けると、部屋の奥からキャンキャンと嬉しそうに鳴きながらマロンが朱莉目掛けて飛びついて来た。「ウフフ……ただいま、マロン」マロンを抱き上げると、まるで尻尾がちぎれんばかりに降って喜びを現すマロンが朱莉は愛しくてたまらない。以前は寂しい思いで玄関のドアを開けて帰宅していたが、今では扉を開けるのが楽しみになっていた。マロンを抱き上げ、部屋の時計を見ると時刻は夕方の6時になろうとしていた。「いけない。病院で編み物に夢中になっていたから気付かなかったけどもうこんな時間だったんだね。ごめんね。すぐにご飯あげるから」マロンを床に降ろすと、マロ
ここは明日香と翔の部屋――「ねえ、最近どうしたの? 翔。何だかとても楽しそうに見えるけど?」お風呂から上がって来た明日香がテレビを見ながらおつまみとウィスキーを飲んでいる翔に声をかけてきた。「え? 何故そう思うんだ?」「だって、さっきスマホを見て笑顔になっていたからよ。ねえ……何を見ていたのよ? 私にも見せて?」明日香がテーブルの上に置いてあるスマホを素早く奪い去ってしまった。「お、おいっ! 明日香! 返してくれないか?」翔の慌てた様子に、明日香はピンときた。「何……? その態度何だか怪しいわね…。もしかして朱莉さんからなの? それとも別の女かしら!?」途端に明日香の顔が嫉妬に歪む。「違う! そんなんじゃないって!」翔は明日香からスマホを取り上げようとするとも、明日香はヒョイと避けて逃げてしまう。そして慣れた手つきでスマホを操作し……手を止めた。「あら? 何よこれは。動画?」「明日香!」翔の制止する声に耳も貸さず、明日香はファイルをタップした。途端に流れ出すトイ・プードルの動画……。「……」翔は頭を押さえた。「何よこれ。ただの子犬の動画じゃないの? これを見ていたの? あら……? 送り主は琢磨じゃないの。もしかして琢磨ってば犬を飼い始めたの?」明日香は翔に動画を見せながら尋ねた。「あ、い、いや。実は琢磨の知人が最近仔犬を飼い始めたらしくて……動画が送られてきたからと言って、俺にも送信してきたんだよ。その犬が……ちょっとかわいかったからつい見ていた。それだけの話だよ」(明日香……どうか、気付かないでくれ……!)翔は全身に冷汗をかきながら言う。「ふ~ん……。つまらない動画じゃないの。こんなもの見て楽しんでたの? だけど何もそんなに必死に隠そうとしなくてもいいじゃないの? 変な翔ね」明日香は少しの間、動画を見ていたが……突然眉が上がった。「ど、どうかしたのか? 明日香?」翔がためらいがちに声をかけた。「うううん、何でもないわ。はい、返すわ」明日香は翔にスマホを返す。「私もシャワー浴びてくるわ。そのあとお酒飲むから用意しておいてね」「あ、ああ。分かったよ」それだけ言い残すと明日香はバスルームへと消えて行った。その後ろ姿を見送ると翔は溜息をついた。(ふう……。危ないところだった。何も気が付いていないよな? でも今
2月10日――「出来た! ついに編めた!」朱莉は嬉しそうに手編みのマフラーを掲げた。藍色のアラン模様のマフラー。バレンタインのプレゼントとして翔を想って編んだ物だった。「時間がかかったけど、編めて良かった……」始めは笑顔でマフラーを見つめていた朱莉だが、やがて徐々にその表情は暗いものになっていく。「編んだのはいいけど、翔先輩受け取ってくれるかな……。そもそもどうやって渡せばいいんだろう?」明日香に頼むのは論外だし、郵便受けに入れるわけにもいかない。かと言って九条琢磨に頼む事だって出来るはずが無い。「馬鹿だな……私ったら。翔先輩がマロンを見にいつかこの部屋に来てくれるんじゃないかって期待していたんだもの。その時手渡せるかと思っていたなんて……」以前までは琢磨からマロンの動画を送って貰いたいとのメッセージが届いていたが。ここ最近はその連絡すら入ってこなくなっていた。(それとも、何かあったのかな?)朱莉は部屋にいるマロンを見た。さっきまでは元気よく遊んでいたが今は遊び疲れたのか大人しく眠っている。「翔先輩……もうマロンには興味がなくなっちゃったのかな……」溜息をつくと時計を見た。今の時刻は午前11時をさしている。まだお昼までは時間があるので朱莉は通信教育の勉強を始めることにした。編み物の道具を箱にしまい、先程編みあがったマフラーを再び見つめた。「きっともう渡す事は無理だと思うから、自分で使おうかな……。でもいつか渡せる日が来るかもしれないし……」そこで編みあがったマフラーを編み物道具が入った箱に一緒にしまうと、PCに向かって通信教育の勉強を始めた時。――ピンポーン突然チャイムの音が鳴り響いた。「え? 誰だろう?」慌ててモニターで確認して、朱莉は驚きのあまり声をあげそうになった。なんとそこに映っていたのは明日香だったのだ。「あ、明日香さん……? どうして……?」心臓がドキドキしてきた。朱莉にとって、明日香は招かざる客でしかない。だがドアを開けない訳にはいかった。直ぐに鍵を開けてドアを開けると、腕組みをしてブランド服に身を固めた明日香が不機嫌そうに立っていた。「こんにちは、明日香さん」緊張で喉がカラカラになりながらも朱莉は頭を下げた。「……こんにちは。何よ、いたんじゃないの。いるならもっとさっさと早く出て来なさいよ」ツン
「え……? あ、あの……副社長に許可をもらって年末から飼い始めた犬ですが……?」「何ですって? 翔が許可したって言うの?」明日香は怒りに震えた声で朱莉を睨み付けた。「は、はい……」「貴女ねえ……ふざけないでよ!」明日香が鋭い声を出した。その声の迫力に朱莉はビクリと肩を震わせえ、マロンも何事かと目を開けて明日香を見た。「ヒッ! ちょ、ちょっとこの犬、目を覚ましたじゃないの! 私の所に近付けないようにしてよ! 匂いが移るでしょう!?」「す、すみません!」朱莉は急いでマロンの側に駆け寄ると抱き上げた。その姿を露骨に嫌そうな目で見つめる明日香。「全く……よくも動物を平気で抱き上げられるわね。信じられない人だわ」明日香はまるで汚らしいものを見るような眼つきで朱莉とマロンを交互に見た。「……」朱莉は何と返事をしたらよいのか分からず、俯いている。「何故犬を飼うのに翔の許可だけ得るのよ? 普通私にも尋ねるでしょう? 第一ここは貴女の家じゃないのよ!? 貴女はここを出て行って、将来的には私と翔が暮らす場所なんだから! 何故家主である私に犬のことを言わなかったのよ!」ここは貴女の家じゃない……。改めて明日香に面と向かって言われ、朱莉の心はまるでナイフで突き立てられたかのようにズキリと痛む。「す、すみませんでした……。明日香さんに何の相談もせずに……。そ、それでは改めてお願いします。どうか私がここに住まわせていただいている間、この犬を飼わせていただけないでしょうか?」マロンをギュッと抱きしめ、懇願した。「はあ? 何を言ってるの! そんなの駄目に決まっているでしょう!」にべもなく却下する明日香。「そ、そんな……」「当り前でしょう! 私はねえ、動物が嫌いなのよ! 匂いが染みつくじゃないの! 貴女、動物の匂いが染みついた部屋で私達に暮らせと言うの? そんなに犬と暮らしたければこの家を出て行ってからにしてちょうだいっ!」「!」(そ、そんな……。マロンを…手放せと言うの……?)思わず目に涙が浮かびかける。「何よ? 泣けば済むと思っているの? 泣けば私が許すとでも? 冗談じゃないわ! 貴女の雇用主は私と翔なのよ? 従う義務があるのよ! 貴女と結んだ雇用契約書にもそう記されているはずでしょう! もし言う事を聞けないなら今まで貴女に支払った金額を全部返し
「ウウゥウウウ……」牙をむき、威嚇するかのように低く唸るマロン。「マロン? どうしたの?」今迄一度も誰かに唸り声をあげた事が無かったマロンが今、朱莉の腕の中で低く唸っている。「な、何よ……この犬……。チビのくせに人に唸るなんて……。だ、だから動物は嫌なのよ……ちょっと! 何とかしなさい! その犬を黙らせなさいよ!」明日香は後ずさりながら叫んだ。「マ、マロン! お願い。おとなしくして……?」朱莉はマロンの頭を撫でながら必死に宥める。「とにかく、一刻も早くその犬を何処かへやってちょうだい! 1週間以内に他へやらないと保健所に通報するわよ!」「そ、そんな……! たった1週間でなんて……! お願いです。絶対に部屋の中を汚したり、傷付けたりしませんので……せめて後1カ月は待って下さい!」朱莉は眼に涙を浮かべて必死で明日香に懇願した。「……うるさいわね! それなら私が今すぐ何処へなりとも捨ててきてあげるわよ! ケースに入れなさい!」その瞳はとても恐ろしかった。「そ、そんな……」「それにねえ、本当は翔だって動物は好きじゃないのよ! だけど貴女に気を遣って断れなかったのよ。翔は誰にでも優しいから。だから勘違いするのよね!? 自分にも望みがあるのでは無いかと!」それはまるで朱莉の翔に対する思いを見透かしたかのような言い方だった。「!」(そ、そんな……翔先輩。本当は動物が嫌いだったの……? だから犬の動画も最近は何も言ってこなかったの……?)けれど翔も明日香も動物が嫌いなら、朱莉が選ぶ道は一つしか無かった。「わ、分かりました……。1週間以内に何とかします……」朱莉はこぼれそうになる涙を堪えながら、震える手でマロンをギュッと抱きしめて返事をした。「話はそれだけよ。1週間も待ってあげるのだから感謝しなさい! ……それにしてもここはお客に対して飲み物すら出さないのかしら?」明日香はリビングの椅子に座ると睨みつけてきた。「あ! す、すみません! すぐに用意します!」朱莉は慌ててマロンをサークルに戻すと、洗面台に手を洗いに向かった。少したってリビングに戻ると何故か明日香の姿が見えない。「明日香さん?」部屋中を探しても明日香の姿はみつからず、玄関を覗いてみると明日香の靴は消えていた。「明日香さん……帰ったんだ……」次の瞬間。「ウッ……フッ
「はい……はい。そうなんです……。どうぞよろしくお願い致します…」朱莉は丁寧に挨拶をすると電話を切った。今電話をかけていた相手はマロンのトレーナーである。1週間以内にマロンを手放す様に言われた朱莉は必死でマロンの引き取り手を探していたのであった。(何としてもマロンを大切に育ててくれる人を探してあげなくちゃ……!)朱莉はマロンを明日香の命令で手放さなければならなくなったが、マロンには幸せになって貰いたかった。それが最後までマロンを守り切れなかった自分の罪滅ぼしだと思い、必死に引き取り手を探していたのだ。トレーナーの前にはマロンを購入したペットショップにも相談した。ペットショップの店員は朱莉の話を驚きながら聞いてくれたが最後は同情してくれて、こちらでも心当たりの人を当たってみますと言ってくれたのだ。 朱莉は最悪1週間で良い飼い主が見つからなければ、この際ペットホテルにマロンを預けて明日香から守る覚悟を決めていた。「さて……次はネットで探してみようかな……」朱莉はチラリとマロンの様子を伺った。今マロンはサークルの中で犬用おもちゃで遊んでいる。その愛らしい姿を見ていると、いつしか朱莉の目には涙が浮かんでいた。「駄目駄目、泣いてる暇があるなら……マロンの引き取り手を探さなくちゃ!」そして朱莉はPCを前に、必死で里親を探してくれそうなサイトを検索し続けた。――20時「ただいま、明日香。どうした? まだ食事を済ませていなかったのか?」翔は家政婦の作ってくれた豪華な食事がまだ手付かず状態でテーブルに並んでいるのを見て、リビングでテレビを観ている明日香に声をかけた。「ええ。大事な話があるから2人で一緒に食事をしようと思って翔を待っていたのよ」「そうか。それじゃ2人で食事しながら、その大事な話を聞かせてくれないか?」翔は久々に明日香と食事が出来るのが嬉しかった。「ええ。とても面白い話なんだから……」明日香は笑みを浮かべながたのだった――****「このサーモン料理、美味しいわね?」明日香は白ワインで調理したサーモンを口に運んでいる。「ああ、さすがは一流家政婦の女性だな」翔も満足そうに返事をする。「ところで明日香。話って言うのは何だ?」「実はね、今日少し用事があって朱莉さんの部屋へ行ったのよ」明日香はシャンパンを飲んだ。「な、何だって!?
「そうなの。餌も水もろくに上げていなかったし、平気であんな小さい子犬にしつけの為だと言って手を上げていたのよ? 子犬は可哀そうにキャンキャン鳴いていたっけ……」「そ、その話……本当なのか……?」翔の声は震えていた。「あら何よ? 私が嘘をついているとでも?」明日香が口を曲げる。「いや。しかし……見間違いと言うことは……?」「そんな訳無いでしょう!? とにかく朱莉さんは子犬を虐待していたのよ? だから私は言ったの。今から1週間以内にその子犬を手放しなさいって! さもなくば私から保健所に虐待の疑いがありますって通報するからと言ってきたわ」明日香は興奮を抑えきれないかのように激しい口調でまくし立てる。「あ、明日香。それ……本当のことなんだよな……?」翔は明日香の目をじっと見つめた。「ええ、そうよ。まさか朱莉さんがあんな人だとは思わなかったわ。人って本当に見かけじゃ分からないものね。でもきっとこれで朱莉さんも目が覚めて犬なんか飼うべきものじゃないって身の程を知ったんじゃないの? そう思わない翔? これで良かったのよ」まるで全てを見透かすような視線の明日香に翔は頷くしかなかった。 食事の終わった後、翔はリビングのソファの隙間に藍色の毛糸の編み物を見つけた。拾い上げてみるとそれはアラン模倣が美しい藍色のマフラーであった。(このマフラーは……ひょっとして……?)翔は片づけものをしている明日香の傍へ寄ると尋ねた。「明日香……このマフラーはひょっとして……」「あ……そ、それは……」明日香が言い終わらないうちに翔は明日香を抱きしめた。「ありがとう! 明日香。これは俺へのプレゼントなんだろう? バレンタインの」「え、ええ。そうなのよ。今日……やっと編み上がったところだったの」「手編みのマフラーなんてくれるの初めてだよな? 大切に明日から使わせてもらうよ」「そう……。大切に使ってね……」明日香は翔の胸に顔をうずめた――23時――「マロン……。今夜から一緒に寝ましょう? あなたと一緒にいられる時間はもうあと僅かしかないから」朱莉はベッドの中にマロンを入れると、そっと身体を撫でなた。結局今日は新しい引き取り手を見つけることは出来なかった。さらに追い打ちをかける出来事があった。朱莉が一生懸命編み上げた翔へのバレンタインのプレゼントのマフラーが消え
――17時「それじゃ、お母さん。また来るね」面会時間が終わり、朱莉は母に声をかけて席を立つと呼び止められた。「あ、あのね……朱莉。実は今度の週末、1日だけ外泊許可が取れたのよ」「え? 本当なの!? お母さん!」朱莉は顔をほころばせて母の顔を見た。「え、ええ……。それで朱莉、貴女の住むお部屋に泊らせて貰っても大丈夫かしら?」「!」母の言葉に朱莉は一瞬息が止まりそうになったが、何とか平常心を保ちながら返事をした。「うん、勿論大丈夫に決まってるでしょう?」朱莉はニコリと笑顔を見せると母に手を振って病室を後にした——****(どうしよう……)朱莉は暗い気持ちで町を歩いていた。母が外泊することが出来るまでに体調が回復したと言うことは朱莉にとって、とても喜ばことことであった。だが、それが朱莉の住む部屋を母が訪れるなると話は全くの別物になってくる。母があの自宅を見たら、朱莉が1人であの部屋に住んでいると言うことがすぐにばれてしまう。かと言って翔にその日だけでも朱莉の自宅に来てもらえないかと頼めるはずも無い。……どうしよう? いっそのこと母に事実を話してしまおうか?実は翔との結婚は書類上だけで、実際はただの契約婚だと言うことを。だけど……。(駄目……本当のことなんかお母さんに話せるはずが無い。きっと心配するに決まっているし、そのせいでまた具合が悪くなってしまうかもしれない。折角体調が良くなってきたっていうのに……。そうだ、いっそのこと翔先輩は突然海外出張で不在だって嘘をついてみる……?)だが、あの部屋はどう見ても翔の存在感がまるで無い。一応食器類は翔の分として用意はしてあるし、クローゼットにも服は入っている。だけど……やはりどんなに取り繕ってみても所詮女の1人暮らしのイメージが拭い去れないのは事実であった。「どうしよう……」気付けばいつの間にか朱莉は自分が住む億ションへと辿り着いていた。そして改めてタワー億ションを見上げる。「馬鹿だな……私……。結局私自身もここに仮住まいさせて貰っている身分だって言うのに……」暗い気持ちでエレベーターに乗り込むと、今後の事を考えた。どうしよう。やはり母には何か言い訳を考えて、ここには連れて来ない方がいいかもしれない。それならどうする? いっそ……何処か都心の高級ホテルを借りて、そこに母と二人で泊ま
翌日――琢磨と翔は都内にある取引先を訪れており、昼休憩の為にイタリアンレストランへ来ていた。「うん。ここのイタリアンは中々旨いな。今度明日香を連れて来てみよう」翔はボロネーゼのパスタを口に入れると満足そうに頷く。「ああ…」返事をする琢磨は何故か上の空だ。「昨日は明日香の体調が良かったから久しぶりに二人で水族館へ行って来たんだ。やっぱり水族館は良いな。……何と言うか癒される気がする」「そうだな……」琢磨は溜息をつきながら、ポルチーニパスタを口に運んで無言で食べている。「……どうにも調子が狂うな……。仕事上でミスは無かったが一体どうしたんだ? 琢磨、何だか元気が無いように見えるぞ?」翔は琢磨の顔をじっと見つめた。「いや……別に俺は至って普通だ」「嘘つけ。今だって上の空で食事をしているのは分かってるんだぞ? 一体何があったんだ? いつものお前らしくも無い。何か悩みでもあるなら俺に相談してみろよ? 考えてみれば最近はずっとお前が俺の相談に乗っていてくれたからな」食事を終えた翔はフォークを置いた。「……別に何も悩みなんかないさ」器用にパスタをフォークに巻き付ける琢磨。「そうか……? それで、さっきの水族館の話なんだが、明日香もすっかり熱帯魚が気に入ったらしく、帰宅してからネットで熱帯魚の事を色々調べていたんだ。朱莉さんに触発されたのかな? あの明日香がペットを考えているなんて信じられないよ」翔の口から朱莉の名前が出てくくると、そこで琢磨は初めてピクリと反応した。「朱莉さん……? 朱莉さんがどうしたって言うんだ……?」「お前……やっぱり俺の話、上の空で聞いていたな? だから明日香がペットに熱帯魚を探し始めているんだ。それで朱莉さんの影響を受けたんじゃないか? って話を……。ん? そう言えば朱莉さんは何か次のペットを考えいているのかな?」「……珍しいよな。お前が自分から朱莉さんの話をするなんて。ひょっとして……お前も……」そこで琢磨は口を閉ざした。(え……? 今、俺は何を言おうとしていたんだ……?)「ん? 何だよ、お前もって?」一方の翔は琢磨が突然口を閉ざしてしまったので不思議そうに琢磨を見る。「いや、何でも無い」琢磨は最後の食事を終えると、コーヒーをグイッと飲み込んだ。「今日は15時から役員会議があるだろう? 早めに社に
「お荷物は全てお部屋に運んで置きました。こちらがお預かりしていた部屋のキーでございます。お受け取り下さい」琢磨は朱莉に部屋の鍵を渡してきた。「は、はい……。どうもありがとうございます……」(一体九条さんは急にどうしたんだろう? さっきまではあんなに親し気な態度を取っていたのに……)「それでは私はこれで失礼いたします。副社長によろしくお伝え下さい。それでは私はこれで失礼させていただきます」「分かりました……」戸惑いながら朱莉は返事をした。(副社長によろしく等、今迄一度も言った事が無かったのに……)琢磨はペコリと頭を下げると足早に去って行った。その後ろ姿は……何故か声をかけにくい雰囲気があった。(後で九条さんにお礼のメッセージをいれておかなくちゃ……)京極は少しの間無言で琢磨の後ろ姿を見ていたが、やがて口を開いた。「彼は朱莉さんの夫の秘書だと言っていましたよね?」「はい、そうです。とてもよくしてくれるんです。親切な方ですよ」「だからですか?」「え? 何のことですか?」「いえ。今日の朱莉さんは今迄に無いくらい明るく見えたので」京極はじっと朱莉を見つめる。「あ、えっと……それは……」(どうしよう……。京極さんにマロンを託したのに、今度は新しく別のペットを飼うことになったからですなんて、とても伝えられない……)その時京極のスマホが鳴り、画面を見た京極の表情が変わった。「……社の者から……。何かあったのか?」京極の呟きを朱莉は聞き逃さなかった。「京極さん。お休みの日に電話がかかってくるなんて、何かあったのかもしれません。すぐに電話に出た方がよろしいですよ、私もこれで失礼しますね」実は朱莉は新しくペットとして連れてきたネイビーの事が気がかりだったのだこの電話は正に京極と話を終わらせる良い口実であった。「え? 朱莉さん?」戸惑う京極に頭を下げると、足早に朱莉は億ションの中へと入って行った。(すみません……京極さん。後でメッセージを入れますから……)エレベーターに乗り込むと、朱莉は琢磨のことを考えていた。(九条さんはどうしてあんな態度を京極さんの前で取かな? もしかして変な誤解を与えないに……?だけど私と九条さんとの間で何がある訳でもないのに。でも、それだけ世間の目を気にしろってことなのかも。それなら私も今後はもっと注意しな
「マロンに良かったら会って行きませんか? 今連れて来ますので」京極が朱莉に尋ねた。「で、でもマロンに会えば、あの子はまた私を思い出して離れようとしなくなるんじゃ……」「だったら僕が毎日ドッグランへ連れて来るので、朱莉さんもその時にここへ来ればいいじゃないですか」「え……?」京極の目は真剣だった。「京極さん。何を仰っているのですか? 手放さなければならなかったマロンを引き取って貰えたのは本当に感謝します。そして今もこうしてドッグランへ連れて来てくれて遊ばせてくれているんですよね?」朱莉は遠くでマロンとショコラが遊んでいる姿を見つめる。「はい」「でも、本当はお忙しいんじゃないですか? 私は毎日出かけていますが、マロンを託してから京極さんにお会いするのは今日が初めてなんですよ?」京極は目を伏せて黙って話を聞いている。「京極さんは社長と言う立場で、多忙な方だと思います。毎日ドッグランで遊ばせるのは難しいと思いますよ? 私とマロンを会わせてくれようとするお気持ちには本当に感謝致しますがご迷惑をお掛けすることは出来ません。時々マロンの様子をメッセージで教えていただけるだけで、もう十分ですから」京極は3日に1度はマロンの様子を動画とメッセージで朱莉に報告してくれていたのだった。「朱莉さん。マロンに会わせる為だけの理由じゃ駄目なら……僕の本当の気持ちを言いますよ」「本当の気持ち……?」「はい。貴女のことが心配だから、何か力になれないかと思っているんです。悩みがあるなら相談にも乗りますし、助けが必要なら助けてあげたいと思っているんです。僕でよければ」朱莉は京極を黙って見つめた。何故、この人はそこまで真剣な顔でそんな事を言ってくるのだろう? 朱莉には不思議でならなかった。やはり、同情されるほど今迄自分は暗い顔ばかりしていたのだろうか……?「ここに引っ越してきて、初めて朱莉さんを見かけた時、貴女は泣いていました。その次に見かけた時もやはり貴女は泣いていました。いつもたった1人で……。僕がシングルマザーの家庭で育った話はしていますよね? 母は僕を育てる為にいつも必死で働いていました。僕に心配かけさせない為に、いつも笑顔で過ごしていました。けど夜布団に入っていると、隣の部屋にいる母が声を殺してよく泣いていました。だから僕は母の為にも頑張ってここまできた
琢磨がキャリーバックの中に入れたウサギを抱え、2人で店を出ると朱莉はマロンのことを考えた。(マロンを手放してまだ一月ほどしか経っていないのに……私って薄情な人間なのかな……?)そんな朱莉の横顔を琢磨はじっと見ていたが、明るい声で話しかけてきた。「朱莉さん。このウサギ、紺色をしているからコンて名前はどうかな? あ、でもそれじゃまるで狐みたいだな? 朱莉さんならどんな名前にする? 早く決めないとコンて名前で呼んじゃうぞ?」「ええ? い、今決めるんですか……? う~ん、どうしよう……。あ、それじゃネイビーってどうですか?」「え……ネイビー……?」琢磨は一瞬目を見開き……次に声を上げて笑い出した。「コンだからネイビー? ハハハ……これは面白いな。うん、ネイビーか……素敵な名前じゃ無いかな? それじゃ、今日からこのウサギの名前はネイビーだ」そんな琢磨を見て朱莉は思った。(やっぱり九条さんは相当私に気を遣ってくれているんだ。私を契約婚の相手に選んだから? そんなに気にする事は無いのに。だって九条さんのおかげでもう二度と会う事は無いだろうって諦めていた翔先輩に再会出来たのだから……)朱莉の考えではむしろ琢磨には感謝したい位なのだが、それを伝えれば益々恐縮してしまうのでは無いかと思うと言い出せなかった。その後も2人は他愛無い会話を続けながら、帰路についた——**** 2人で億ションに辿り着いた時、朱莉はドックランで遊ばせている人物を見つけた。 (あ……あの人は……!)すると、相手も朱莉の存在に気が付いたのか振り向いた。「きょ、京極さん……」「あ……朱莉さんじゃないですか! ずっと姿を見かけなかったので心配していたんですよ!」その時、京極は朱莉の隣に立っていた琢磨を見た。「……」琢磨は何故か先程とは打って変わって、険しい顔で京極を見つめている。(え? 九条さん……? どうしたのかな?)朱莉は不思議に思い琢磨の顔を見上げた。一方の京極も何故か挑戦的な目で琢磨を見つめている。先に口火を切ったのは京極の方からだった。「こんにちは、初めまして。貴方ですか? 朱莉さんの夫で、彼女に折角飼った犬を手放す様に言ったのは。貴方は夫のくせに妻を平気で悲しませるんですね?」京極は喧嘩腰に琢磨に話しかけてきた。「夫?」琢磨が小さく口の中で呟くのを朱
明日香が流産をしてから、早いもので半月が過ぎ、季節は3月になっていた。あの夜、琢磨に説得された翔は、朱莉に詫びのメッセージを送った。自分勝手な思い込みで心無い言葉を朱莉にぶつけてしまった非礼を詫び、明日香が朱莉に感謝していた旨を綴った。そしてこれからも契約婚の関係を続けて貰いたいと書いて朱莉にメッセージを送ったのだった。勿論朱莉からの返信は快諾の意を表す内容であったのは言うまでも無い。翔は前回の非礼の意味も兼ねて、今月からは今迄月々手当として朱莉に振込していた金額を増額させ、朱莉は毎月150万円もの金額を貰うことになったのだった——****—―日曜日 朱莉は琢磨と一緒に買い物に来ていた。「何だか申し訳ないです。翔さんにこんなに沢山お金を振り込んでいただくなんて……」琢磨と並んで歩きながら朱莉は口にするも、琢磨はにこやかに答えた。「いえ、気にしないで下さい。そのお金は明日香さんを助けてくれた副社長のお礼の意が込められているのですから」「明日香さんの……」あの日、明日香が救急車で運ばれた夜のこと。明日香の母子手帳を朱莉が必死に探し出し、救急車の中で激しい腹痛で苦しんでいる明日香の手をギュっと握りしめて励ましの言葉をかけ続けた朱莉。明日香の中で感謝の気持ちが芽生えてきたのか、朱莉に対しての態度が軟化してきたのだ。そして犬よりも小さめで静かな小動物ならあの部屋で別に飼育しても良いと明日香の許可を貰えたのである。そこで朱莉はウサギを飼うことに決めたのだが……。「あの……九条さん。折角のお休みのところ、わざわざペットショップについて来てもらわなくても、私なら一人で大丈夫ですよ?」隣りを歩く琢磨を見上げた。「いえ、いいんですよ。ペットを飼うには色々荷物も必要になりますからね。荷物持ち位させて下さい」しかし朱莉は申し訳ない気持ちで一杯だった。琢磨は翔の第一秘書と言うだけあり、日々多忙な生活を続けている。それなのに貴重な休みを自分の買い物につき合わせることに肩身が狭く感じてしまうのであった。今回、何故琢磨が朱莉の買い物に付き合う流れになったかと言うと、翔から琢磨にペット飼育に関する明日香のメッセージを朱莉に伝えて欲しいと頼まれたのだ。琢磨は朱莉に翔からの伝言を伝えたると朱莉が遠慮がちにそれならウサギを飼ってみたいと申し出てきた。そこで今
億ションを足早に出ると、琢磨は翔に電話をかけた。『もしもし……』5回目のコールで翔が電話に応じた。「おい、翔。お前まだ病院にいるんだよな?」『あ、ああ。医者の話では今日は全身麻酔で子宮の中を綺麗にする処置をしたそうだから、付き添いをするように言われているんだ。お前は今何処にいるんだ? ひょっとして外にいるのか?』「ああ。そうだ。気の毒な朱莉さんの所へ行っていた所だ。翔、人のことを言えないが……お前は最低な男だよ。明日香ちゃんに対する優しさをほんの少しでも朱莉さんに分けてやろうとは思えないのか? いいか? 朱莉さんを傷付けたのはお前だけど……彼女を慰められるのも……お前しかいないんだよ!」歩きながら琢磨は吐き捨てるように言った。『琢磨。お前……』「いいか? 朱莉さんは今回の事で契約婚を打ち切られるのじゃ無いかって心配していたぞ? 彼女はまだお前との契約婚を望んでいる。もしお前が朱莉さんとの契約婚を打ち切ろうと考えているなら俺が許さない。絶対に阻止するからな!?」すると電話越しから狼狽えた声が聞こえた。『ま、まさかそんな事考えるはず無いだろう? 俺は今……すごく後悔してる。つい、頭に血が上ってあんな酷いことを朱莉さんに言ってしまうなんて……。もう何回も俺は朱莉さんを傷付けてしまった。我ながら最低な男だと思っている。だけど……明日香が絡んでくると俺は……!』「それはお前が明日香ちゃんに負い目があるからだろう? お前……本当に明日香ちゃんのことが好きなのか? 本当は罪滅ぼしの為に愛そうとしているだけなんじゃないのか?」『! ま、まさか……俺は本当に明日香の事を……』しかし、そこまでで翔は言い淀んでしまった。「まあ、別に2人のことは俺には関係ないけどな。ただ朱莉さんのことなら今後俺は口を出させて貰うぞ。俺にはお前と言う男を紹介してしまった罪があるからな」『琢磨……』受話器越しの翔からため息交じりの声が聞こえた。「何だよ? 何か言い分があるなら聞くぞ?」『いや、特に無いよ。とにかく朱莉さんにはお前から伝えておいてくれないか? 契約婚は続けさせて欲しっいって』「なら、お前からメッセージを送れ」琢磨はぶっきらぼうに言った。『だが、俺から連絡をすると……怖がられるだろう?』「お前……! ふざけるなよ! 彼女……朱莉さんはずっとお前との連
「朱莉さん……少しは落ち着きましたか?」玄関で琢磨は朱莉を見下ろし、尋ねた。「は、はい……申し訳ございませんでした。つい取り乱して……あ、あんな風に泣いて……。お恥ずかしい限りです……」俯く朱莉。いい大人があんな風に子供の様に泣きじゃくる姿を琢磨に見せてしまった事が恥ずかしくて堪らなかった。「そうやっていつも1人で泣いていたんですか? 辛い時や悲しい時、いつも……たった1人で……」琢磨の何処か苦し気な声に朱莉は顔を上げた。その顔は悲しみ満ちていた。「九条さん?」すると琢磨は突然頭を下げ、ポツリポツリと語りだした。「朱莉さん。私は副社長の部下であり、そして親友でもあります。親友は……禁断の恋と、会長に見合いを強いられ、苦しんでいました。そしてついに世間を……会長の目を胡麻化す為に『契約婚』という手段を選んだんです。そして私も親友と会社の為に面接と言う手段を取り、募集し……選ばれてしまったのが朱莉さん。貴女だったんです。書類選考をしたのは、他でも無い……この私です」「……」朱莉は黙って話を聞いていた。「私も朱莉さんをこんな辛い立場に追いやった人間の1人です。いや……最初に朱莉さんを副社長に紹介したのが私だから一番質が悪い男です。だからこそ、私は貴女に罪滅ぼしがしたい」「罪滅ぼし……?」「はい、もし朱莉さんがペットを飼いたいと言うなら私が貴女の代わりに飼って育てます。そして休みの日は貴女にペットを託します。もし、風邪を引いたり、体調を崩したりした場合は時間の許す限り、貴女の元へ駆けつけます。貴女が翔と契約婚を続けるまでは……出来るだけ朱莉さんの力になります。いや……そうさせて下さい」琢磨は頭を下げた。その身体は震えている。「な、何を言ってるんですか九条さん! そんなこと九条さんにさせられるわけないじゃありませんか!九条さんは翔さんの重責な秘書ですよ? 私のことなら大丈夫です。高校を卒業してからはずっと1人で生きて来たんです。思った以上に強いんですよ? でも今回のことはちょっと……堪えてしまいましたど……」「それは副社長の事が好きだから……ですよね?」琢磨の顔は先ほどよりも悲し気に見えた。「!ど、どうして……?」そこから先は朱莉は言葉にならなかった。「朱莉さんを見ていればそれ位分かりますよ。でも……朱莉さん。悪いことは言いません。翔
真っ暗な部屋の中――朱莉は電気もつけずに部屋の隅に座り込んでいた。翔に冷たい言葉を投げつけられた後、朱莉は何処をどうやって自宅に帰って来たのか思い出せなかった。気付けば部屋の隅に座り込んでおり……部屋の中は闇に包まれていた。ぼんやりとした頭の中で朱莉は思った。今は何時なんだろう? 毎日欠かさず通っていた母の面会も今日は行く事が出来なかった。……きっと母は心配しているだろう……。朱莉の手には翔との連絡用スマホが握り締められていた。何処かで朱莉は期待していたのだ。ひょとしたら翔から連絡が入ってくるのでは無いだろうかと……。誤解してすまなかったと詫びの連絡が来るのでは無いかと心の何処かで密かに期待していたのだ。けれど何時間たっても朱莉のスマホには翔からの連絡は入って来なかった。代わりに朱莉の個人的に所有するスマホには何件も着信が入っていたが……朱莉はそのスマホを確認する気力も持てないでいた。突如、壁掛け時計が夜の9時を示す音を鳴らした。「あ……もう、こんな時間だったんだ」しかし、今の朱莉はなにもする気力が湧かなかった。そして今もこうしてかかってくるはずも無い翔からの電話を待ち望む自分がいる。朱莉の目に涙が浮かんできた。(馬鹿だ……私。あれ程翔先輩に冷たい言葉を投げつけられたのに……顔を見たくないって言われたのに……今もこうして翔先輩からの連絡を待っているなんて……)今迄我慢していた涙がとうとう堰を切って溢れ出してきた。朱莉は自分の膝に頭を埋め、声を殺して泣き続けた。本当はこんなことをしている場合では無いのに。3年間で高校を卒業する為に勉強だってしないといけないし、レポートも書かなければならない。それに明日香には英会話の勉強もするように以前言われたことがあったので、並行して朱莉は英会話の勉強も行っていた。やらなければならないことは沢山あるのに……今は何も手につかなかった。(マロン……こんな時、マロンが側にいてくれたら……)あの温かい身体を抱きしめて……自分の悲しい気持ちを、寂しい気持ちを慰めて貰うことが出来たのに……。(誰か、誰でもいいから私を助けて……。お母さん……いつになったら一緒に暮らせるの……?) その時――玄関のインターホンが何度も鳴り響く音が聞こえてきた。こんな時間に誰だろう……? 朱莉は立ち上がる気力すら無かった。それで